三枚目のハンカチ

プリンス・フィリップ(Duke of Edinburgh)、薨去ウィンザー城で行われた最期の別れの様子をBBCの中継で見ていた。感染症の拡大するなか、慣例と比べおそらくかなり小規模な式であったと思う。それでも非常に心打たれるものがあった。いかに格式と儀礼がものを言うか、それらの象徴の頂点たる英国王室は、この疫災下であっても彼らの為すべきことを粛々と為した。そう思った。

 

占星術がいうところによると、我々は近年、「風の時代」に突入したという。風。故郷を持たず、永遠に旅を続ける透明な存在。吹き抜け、揺り動かし、過ぎ去り、消える。消えてはまたやってくる。自由。個性。柔軟さ。そういった資質が価値となり、ひいては財産となる時代だそうだ。

 

思えば数年前から私たちは風のようなものを愛した。

 

日々の記録にと書き連ねたブログは、スクロールによって毎秒ごとに視界から消え去るツイッターへ。サブスクリプションに次々とアップされ次々に埋もれる、かつてはCDやレコードであった音楽の儚すぎるひとひら。今日インスタグラムに投稿されたスイーツの画像を、明日誰が覚えているというのだろう?契約を解除すれば跡形も無く画面から消え去る、長たらしい映画たちの、あるいは10分でヌけるアニメーションの、群れ、群れ。エトセトラ、エトセトラ。私たちの愛するほとんどすべて、私たちは風に託した。そしてその選択から漏れたあらゆる小さな愛しきもの、優れたもの、それらはきっとことごとく、"風と共に去"った、のだろう。(そしてスカーレット・オハラは畑に植わった根菜を噛みちぎりこう言った、「私は二度と飢えない」。なんて素晴らしい台詞。私たちは二度と飢えない、音楽にも映画にも言葉にも。)

 

自由、自由、自由。

とにかく自由を愛し、社会規範の見直しを叫び、ともすれば乱雑な革命をも許容できる私たちが、「ジャストサイズ」というファッションを駆逐して数年が経つ。でっかいブラウス、でっかいワイドパンツ、でっかいコート、そして信じられないほどにちっこいバッグ(カブトムシしか入らない)。テロテロの、裾を地面に引き摺るパンツを街なかで見かけて私は何度も振り返り、確認する、現在この国は、深刻な感染症下にあるはずではなかったか?なぜ、若きも大して若くなきも、衣服を使って自らの体表面積を最大限に「拡大」し、目に見えぬウイルスの付着する可能性をじぶんで高めているのか。手のひらより大きく長いフリルをあしらわれた袖。太ももの倍以上に広げられたパンツ。私たちの身体は、いまや実質の約二倍だ。鼻の粘膜すら通り抜ける小さな小さな敵と大戦争をおっぱじめて一年も経つというのに、私たちのファッションはそのミクロな敵に、やさしく門戸を開いている。

体たらく、と言わずして何であろう。非理性、と言わずして何であろう。徹底的に理解したことがある。私たちは我慢ができない。ウイルスに?違う。孤独に。触れられない、触れてはいけないという孤独に。というより、その孤独にふんだんに含まれるエロスに。あるいはタナトスに。死と病に分断される社会のなかで、身体は無意識に一見非合理な拡張を目指す。触れられない。触れたい。抱きしめたい。禁じられた粘膜と粘膜による接触。DNAが叫ぶ、遅すぎると。細胞分裂では遅すぎる。間に合わない。時間がない。「ZARAはどこ?」。

 

接触という新しい規律に、無言で抵抗する街じゅうのドレスの衣擦れ。これは叫びである。ソーシャルディスタンスという新秩序に置き捨てられた身体の叫び。私たちは動物である。動物的でありすぎるほどに、動物であった。

しかしながらこの諦観は、私を前へと、これまでと違う方角へと、進ませる。より動物的でないほうへ。自由気まま、やりたい放題である状態を讃美し、自らすすんで獲物を食い散らかす、それを「自己肯定」と呼ぶ世間から、更に遠くへ。迷いと不決定の、深い叢林へ。若山牧水は言った、「出づるな森を、出づるな森を」。迷いと不決定、不安と自己否定によって、私たちは森の中を彷徨う。しかしここで認めるべきは、その森を、その不自由を拭い去る意志のみを人間性と呼ぶのではなくて、私たちはむしろその迷いの森の中で生きてこそ、人間たり得るというひとつの見地である。

 

獣の振る舞いを、白いレースのハンカチに包んで、バッグに仕舞う。画家で編集者の中原淳一は戦後すぐ、荒廃する日本に生きる女性に向けてこう綴った、「ハンカチは三枚持つこと」。一枚は化粧室で、もう一枚は膝の上で。最後の一枚は自分ではない誰かのために、綺麗なままで持っておくこと。この最後の一枚のハンカチこそ、「獣」ではない「人間」の証である。そして今私たちが褒めそやすタイニー・バッグ、には、三枚のハンカチが果たして入るか、否か。(ジジ・ハディドがもしあのタイニー・バッグの中ハンカチを三枚持っていたら、世界はきっと平和になるだろう。絶対に。)

 

10兆回は言われてきたであろうことを、10兆1回目に繰り返す。世間では悲しみと苦しみとが往来する。その唐突さ、無秩序に、途方に暮れることがある。そんなとき、私たちを救ってきたものはいったい何であったか。10兆回私たちを救ってきたもの---それは「自由」だったか?つまり、どこにでも行ける、何にでもなれる、というような、そういう変幻の幅を担保する「自由」であっただろうか。男物のスウェットを着ても良い、女物の羽織を着ても良い、というような、選択の自由であっただろうか。

私は多少の誤解を招くとしてもこれを宣言したい。どうにもならない究極の悲しみと苦しみのなかで私たちを救ってきたものは、自由ではなく儀礼であった、と。格式と、その振る舞いから湧きおこる尊厳の屋城であった、と。あまりにも動物である私たちの、動物であるゆえの痛みを和らげるものは、水滴を風圧で吹き飛ばすジェットハンドクリーナーではなく、レースの白いハンカチであった。膝の上に広げる美しいナフキンであった。今にも崩れ落ちそうになりながらもプライドだけを背骨に通して何事もない顔で飲む一杯の苦いコーヒー。喪の黒。祖先の形見のパール。または祝儀袋の水引き。誕生日のホールケーキ。赤いカーネーション。チョコレート。各種奉納、豊穣、息災を祈る祭。

あらゆる儀礼が、あらゆる儀式が、あらゆる格式が、私たちの時間を、不安になるほどに続いていく無秩序な時間を、一つの花束にする。悲しみの花束。喜びの花束。その紐帯こそが、儀礼であり、格式である。そして新たな風を、「自由」を最上のものとして崇める私たちが、最も雑に扱う運命であるのも、この儀礼と格式である。

 

私たちは風のように生きていくことはできない。風のようになる、とは、己の存在を、他の存在を、薄弱化させることである。薄弱化したアイデンティティを心底から喜べる人間は未だ少なかろう。私たちは今でさえ「いいね」を受け取って嬉しがっている。写真が盛れたと言って喜び合う。えてして実存在の前提をどこまでも捨てることのできない、存在そのもののエクスタシーの固着物である。

 

 

久しぶりにリボンタイのブラウスに袖を通した。胸でリボンを大きく結ぶのも良いが---首の両側にタイを一周させ、首輪のように覆ったあと、前面に短く戻る端を、ブローチで留めた。自分を躾けるように。お前は人間だ、と、言い聞かせるように。自由と美しさから多くのものを学んだように、理性と忍耐からも、多くを学ばんことを。自分を愛するということを、決して履き違わぬ、よう。

 

 

 

 

 

 

 

 

音楽は聴こえるか  伯牙と鍾子期

 

塾講師をしていた頃、漢文を受講する生徒が多くおり、彼らに教えるために、教科書や問題集を片っ端から読んでいたら、「これはいい話だなあ」と思うものがいくつかあった。生徒に教えながら自分の漢文に対する敷居も低くなった。

 

一番好きなのは『捜神記』の天使の話である。

家に帰ろうと馬車を駆っていた主人公の男が、道端で女に出会う。親切心で載せてあげたら、実はその女は天の使いで、今から主人公の男の家を焼きに行くところだったと言う。しかし馬車に載せてくれたことに免じて、今それを告げた、と。男は家を焼かぬよう天使に乞うた。しかしそれは叶わぬと言う。願いは聞き届けられない。必ず家は焼く。私は努めてゆっくりと向かうから、その間に家財を持ってここを去れ、と天使。男は言われるままに行なった。そしてあくる日の日中、男の家から火が出た。

 

この話は高校漢文あたりでは頻出で、問題集を開けばすぐに出てくる。その理由はよくわからないが、甘さと辛さが実にいい塩梅で、人の世の条理が凝縮された話のように感じて、とても好きである。馬車に載せたくらいで男が完全に許されないのも好きだ。しかしそんな許されない男にも、逃げ道が用意されるのがまた好きだ。天の使いを名乗った女は、どういう女なのだろう。男は一体どんな罪を犯したのだろう。救いとは何だろう。逃げ道とは何だろう。理解しようと思えば理解できそうで、理解できないと思えば理解できないような、そんな不思議な話である。

 

さて、今日私が本当に述べたいのはこれとは全く別の作品についてである。この話には数か月前から関心を持っていた。中国の古典は複数の作品にまたがって伝えられていることが多いため、図書館で一度しっかり調べておきたかったのだが、この感染症社会ではなかなかそれもリスキーな行為となってしまった。あくまで個人的な思いを述べるだけに留まるが、記しておきたいと思う。

以下、角川ソフィア文庫『ビギナーズ・クラシックス 中国の古典  蒙求』より、書き下し文の引用をさせていただく。現代語訳文は私。

 

 

列子に曰く、伯牙(はくが)善く琴を鼓(ひ)き、鍾子期(しょうしき)善く聴く。伯牙琴を鼓き、志、高山に在り。子期曰く、「善きかな、峩峩(がが)乎(こ)として泰山の若(ごと)し。」志、流水に在り。子期曰く、「善きかな、洋洋(ようよう)兮(けい)として江河(こうか)の若し。」伯牙念ずる所、子期必ず之を得(う)。  呂氏春秋に曰く、鍾子期死し、伯牙琴を破り絃(げん)を絶ち、終身復(ま)た琴を鼓(ひ)かず。以為(おも)えらく為に鼓くに足る者無し、と。

―――蒙求「向秀聞笛、伯牙絶絃」

 

列子』によると、伯牙は琴を弾くのが上手く、鍾子期はそれを聴くことが上手かった。伯牙が琴を弾くと、その志は、高山のように高かった。(鍾)子期は言った、「すばらしい、その険しさはまるで泰山のようだ」。伯牙の志が流水にあるときは、子期は言った、「すばらしい、その洋々とした感じはまるで江河のようだ」。伯牙が伝えようとしたことを、子期は必ず理解した。  『呂氏春秋』によると、鍾子期が亡くなったとき、伯牙は自分の琴を壊し弦を切った。そして自身の死が訪れるまで、二度と琴を奏でることはなかった。自分が琴を弾いて聴かせるに足る人間はもういないと、思ったからである。

 

 

 

音楽をめぐる伯牙と鍾子期のエピソードは、親友の意を表す「知音」という二字熟語となって、現在も多く知られている。高校の漢文の教科書にも載っているとネットで読んだが、私の記憶にはない……(忘れているだけと思われる)。

私がこの話を読んだのは、今年の2月か3月ごろであったと思う。読んで一言、ただただ「リアルだな」と思った。そして同時に、この話はあまり多くの人には理解されないだろうな、とも思った。このエピソード「知音」は、「親友」、つまり友情の話として大きく括られて今に至っており、熟語には音楽の意味はスッポリと抜け落ちている。真の友情は得難いもの、教訓もそんな感じだ。

 

一般的な読者にとって、この話で一番感動的なシーンは、おそらくラストにある。伯牙が、亡き友人と過ごした音楽の日々を思い、自ら楽器を絶つ場面。でも私にとって、そのシーンより数倍凄みのある場面は前半にある。「伯牙が音で高山を表現すれば鍾子期はピタリと高山のイメージをキャッチし、伯牙が音で流水を表現すれば鍾子期もピタリと流水のイメージをキャッチした」。ここの部分である。こんなことができる人が、こんな聴力を持つ人が、この世にどれだけいるだろう。そして音楽家がこのような聴力を持った稀有な人間と出逢える幸運は、いったいどれだけのものだろう。伯牙と鍾子期の友情は、単なる「友情」ではない。見えもせず触れもしない媒介物=音楽、を使って、両者が高い精度で会話以上の会話を行っていた、奇跡の話なのだ。そしてそんな奇跡に比べたら、人間同士の一般的な友情など、とんでもなく些細な話である。言葉以上に分かり合えることができる者どうしには、友情なんて尺度は存在しない。お互いの存在が奇跡に近いのだから。代わりが利かないのだから。だからこそ、鍾子期が亡き後、伯牙は、潔く自らの愛した琴を辞めるのだ。「亡き友人を思って」などではない。「亡き奇跡を思って」である。それくらい、音楽家にとっての聴者は、奇跡に近い。特に「本当に音楽を聴くことのできる聴者」は。伯牙と鍾子期の逸話は、音楽の持つ言語的側面を描いたものであり、そしてその言語たる音楽が、この世にいかに存在し難いかを見事に表している。私はこれを「リアル」と感じたのはそのためである。

 

 

大昔は実際に楽器を奏でることこそが音楽であったが、私たちは身近に楽器を得意とする人間がいなくとも、日々音楽を享受している。そして「感動した」だの「最高」だの、「前より良くなった」だの、様々なコメントをする。私たちは非言語的なセンセーショナルな何かを、音楽を享受することだと、ひたすら思っている。それは音楽家も同じだ。聴者にとって自らの音楽が何かしらのポジティブな力、あらゆる感動や興奮、モチベーションとなってくれたら御の字だ、と思っているだろう。実際、それで音楽は回る。全く問題はない。しかし、自分は音楽家のイメージした高山を、高山として、ずばり言い当てることは出来るか。流水のイメージを流水のイメージとして、捉えることはできるか。たとえば誰かが「あれは河だね」と言った文言を聞いて「うむ、河か」と伝達する精度でもって、音楽を聴くことはできているか。そういう音楽の聴き方を、一度でも考えたり、実際に遭遇したりしたことは、あるか。そういった音楽の在り方を、一度でも、願ったことはあるか。

 

言葉を理解することとは、相手が「河」と口にしたら、「河」というイメージをキャッチすることである。それがどんな河であるかまでは個人の経験によるが、とにかく「河」という言葉には「河らしきもの」をイメージさせる力があり、その力を己の力で以って受け取ることを、私たちは会話と呼ぶ。または、理解、と呼ぶ。「河」という言葉に対して、「山」をイメージすることは、伝達としては誤謬がある。「河」と言ってはしょっちゅう「山」と勘違いされる言語は、言語として何らかの改善措置が必要だと、誰もが思うだろう。

ならば音楽は。音楽はどうだろう。私たちは「河」を聴いているのに「山」と捉えてはばからない。そして「河」を「山」と捉えては、その悠大さに勝手に感動している。なぜなら、感動することこそが音楽の第一義だから。センセーショナルであること。そうであれば、山だろうと河だろうと、何でも良い。実際、私たちは音楽から「河」を判別することはできない。許し合っている。理解できないことを。勘違いし合うことを。それが私たちの言う、音楽の力である。そしてその大ざっぱな、なんでもござれな、懐の深い音楽の力は―――煽動へと発展する。音楽が戦争や闘争、あらゆるアジテーションの力を持つのは、音楽家と聴者が、お互いの無理解を無限に許し合った結果である。先述した鍾子期のように、河を河と、山を山と聴き分ける耳を万人が持っているならば、まず音楽は煽動の力を持ったはずがない。

 

私たちは何を聴いているのだろう。何を「聴けて」いるのだろう。私たちは音楽を聴いているか。音楽は、本当に聴こえているか。紀元前400年ごろに描かれた、今から約2500年を隔てた物語が、そう問いかけてくる。

 

 

 

 

 

 

 

普通の恋

 

Youtube観てたらSPANK HAPPYの新曲のライヴ映像が出てきて。わー、懐かしいと。動いてる菊地さん久々に見ました。9月にアルバムが出るのですって。

 

https://youtu.be/T3rvUTVKjF0

 

キャワ〜。なんかちょっとユルいPerfumeみたいなフリがあったりなんかして。私が追っていた頃のSPANK HAPPYは菊地さん&岩澤瞳さんの時代で、あの頃はもっと生々しいもんがあって「援交じみててキモい」という声もチラホラ目にしたんですけど()、なんだか今回はパフォーマンスにも行き過ぎない洗練さがあって(そして狙った感満載のエロスがあって)、菊地さんもジャージにテンガロンハットかぶってた謎の時期からヒップホップ期を通過して、最近またエレガン(菊地氏的言い回しですな。フランス語「エレガント」の男性形)が舞い戻ってきていて。でも好きな女性のタイプは変わらないんですなあ、オホホ。みたいな感じで。ね。

SPANK HAPPYて、「ポップスは全て同じに聴こえる」と言っていたポップス不感症の菊地さんにとっては、自身の音楽活動の中でも戯れの要素がふんだんにある部分なんじゃないかなと思うんですが、だからこそ自己が開けっぴろげになっていますよね。そこが私は好き。菊地さん頭よいんで、自分のテリトリーだと一片の曇りもなくカッコつけられるというか、「あえてカッコつけない」というカッコつけ。とかも含めて、論理とテクニックとセンス全てでもって完全封鎖できちゃうんですよね。でもなんかSPANK HAPPYには、その完全封鎖感が薄いんですよね。「かわいい女の子とエロいこと歌っちゃったりなんてしちゃおう」的な、俗な感覚を見せ・ちゃおう(これも計画なんでしょうが)、みたいな。そういう時の方が、性分みたいなものが、こちらにも伝わってくるなあというか。自ら枠にハマりに行ってる時のほうがその人自身が浮き出てくるというか。それってなんかいいじゃん〜。と思うんです。でも音はやはり素晴らしくて。そこがまあ凄いんだけど。。

そういう意味でも、SPANK HAPPYはゴリゴリのジャズやファンクで他を圧倒する菊地コンテンツの中でも私は結構リアルに重要な存在だと思うし、何より純粋に聴いてて救われる。。ご本人も岩澤さん時代のSPANK HAPPYに通底するテーマは恋愛や青春ではなく「病」だったと仰っていて、やはりSPANK HAPPYって、菊地さんにとって「そこまで熱烈に好きじゃない分野(ポップス)だからこそ好きにやれる遊び=一種のセラピー」だった、と私は思ってます。そんで人がそういう絶望の中で作ったものは、なぜか鑑賞者に対してもセラピーとして作用するんですよね。不思議なことに。

 

10代後半から20代まで、ずーっと、菊地さんは私の中で真のアイドルだったなあ。だった、というと過去形になってしまうけど、最近は大人になったので、彼の言うことの全部が全部に賛成することはなくなり()、でも私はそういう今の若干冷静になった状態も凄く好きで、本が出たら買うし、音楽も聴いてます。

10代後半はほんとに追っかけ状態で、当時はいろんな大学の授業に潜り込んで講義を聞いていたし...そこで出会った同じくモグリの友達もいたし(確かマキちゃんっていったと思う。元気かな〜?マキちゃん。マキちゃんは音楽より先に『スペインの宇宙食』というエッセイで菊地さんファンになった、ZARD坂井泉水に似てる控えめでかわいい子だった)、そのせいで落とした自分の大学の人類学の単位だとか、あと新宿ピットインの公演の後で急に知り合った男性とご飯だけ食べて帰った謎の時間だとか、DCPRGのチケット取ったにも関わらずあまりに何かに落ち込んでて結局行かなかった謎の日だとか、深夜3時枠のラジオを睡魔と闘いながら必死で聞いたり(当時にラジコがあったらね〜!)とか、T大の駒場の授業のあと偶然菊地さん見かけたんで目で追ってたら構内のフレンチレストランに一人で入っていった(あのレストラン今もあるのかな?大学構内だけど普通に高級なレストランがあるんだよね)場面とか、、あとゲランの香水のね、すんごい香水がキツくて()、大教室なのに教室の中頃まで香水の匂いがハンパなかったりだとか。教科書にサインとか頼むとその教科書にもブシャーって香水かけるもんだから更に匂いキツくなる教室..、、みたいな。色々な場面が思い出される。正にわたしの青春のような感じ。

 

楽しい時も落ち込んでる時も、いつでも彼の言葉を聞いていたので、その習慣はなんだか今も残っていて、ものすごく心が塞ぐと、彼のラジオの録音の断片だとかを、再生して過ごしたりする。たくさん思い出がある。しょうもない思い出がたくさん。しょうもない、しょうもない思い出、、、ほんとにどうでもいいような思い出。でもそういうどうでもいい私の青春を味付けしてくれたのが、菊地さんみたいな、幸せなだけじゃない、でも悲しんでるだけでもない、とても頭がよくて別にイケメンでもないのになんかエロくて、歌上手くもないのにたまに歌ったりしててでもなんかそれも良いような感じもあって、長い長いブログ、青山(飲食店)のケジャン食べながら自撮りする写メ黎明期の姿、ファンが送ってくる長い長いメールに返信する文章の、また長い、長い、長い...そんで最高の、音楽、よく着てたテロテロの花柄のシャツ、MIRROR BALLS、エレガンとドンキホーテとヒップホップと、そしてまたエレガン(上記動画の現SPANK HAPPYで歌う女性のドレス見ました?LVMHのコンペで最優秀賞取った20代後半の新鋭デザイナーのものだと思う...菊地さんは一緒にステージに立つ女性のドレスを選ぶのに官能的な悦びを感じる方のはずなんでこりゃ菊地さんのチョイスじゃないかなあ..それにしても早いというか、さすがランウェイミュージックで一冊本出してるだけあり..)、幼児退行するクールジャパンに相当早くから落胆し見切りをつけ、でもなんだかんだ言って最近はルパンやガンダムOSTもやっちゃってる、それでも音楽だけはやっぱり鉄壁で、しかし誰も論破できない美しく嵌め込まれたレゴブロックの塔のような自己弁護の中で、きっと常に孤独と闘っている、そんな人の言葉と音、私の汚く、とにかく最悪で最悪で、あまりに愚かな若さの上に、そういう人の音楽が鳴っていたことは、私にとっては不幸中の幸い、ミスってばかりの判断の中で、珍しく正しく拾えた蜘蛛の糸の一つだったのでした。

 

 

春から断続的に続く絶望の中、何が自分を救うのか、本気で考えたときーーー私はたった一つだけ、「恋がしたい。」と咄嗟に思いました。(知人はそれを笑ったけれど。)

食欲もなく、他の欲望もなく、希望もなく、興味もなく、そんなときに思うことは、かつて恋とともに与えられた、全てを忘れることを許された、生きることさえも忘れることのできた、あの瞬間のことでした。

でもそんなの、菊地さんがもう何年も何年も前に、既に歌っていたんだよね。

 

 

 

「二人が出会った場所は お洒落な場所じゃなかったの

聞こえてくるよ アーバン・ブルース

21世紀型の アース・ビート・ブルー

今は 退屈と絶望が日課になった 知らぬ同士

でも神様だけは 上の方で見てた」

 

(菊地成孔 feat.岩澤瞳「普通の恋」 )

 

 

 

 

 

 

 

触覚と四次元

 

洋裁を趣味にしているので、夏は衣服を購入することが少ない。買うのは自分で作ることのできないバッグやニット類、靴など。

最近は洋服も安価なものが増え、作る方が高くつくこともしばしばだが、首まわりの寸法や丈感など、自分で作る方が確実に思い通りになる。そして身体のサイズにぴったりと合った洋服は、より上品に見える。イギリスのケイト妃のワンピース姿が可憐かつ上品なのは、そのファッションセンスもさることながら、身体の上で布の余りが無くなるよう、ひとつひとつ丁寧に補正されているからだと思う。布が余ると必ずどこかでシワになり、シワの余計なラインがその服を安く見せ...(と、補正について語りだすと止まらないので、ここらへんでやめておこう)。

 

さて、そうして夏は衣服にお金をかけないことを主義にしているのだが、先日コットンのカーディガンを2枚ほど購入した。カーディガンは編めない。しかも夏のカーディガンは、袖なしのワンピースを着る際には必須の携帯物。全く着ないことはまずないし、場合によっては毎夏、毎日使うことになるので、今年は無○良品や○ニクロは卒業して(実際今年はあまり良いものがなかったし)、少しお高めのものを、半額とかになってるのを目ざとく見つけて買ってみた(やっぱりちょっとケチる)。実に久しぶりの衣服の購入であった。

 

 

新しい衣服に袖を通すと、身体は暖かくなる、と同時に、自分のまわりの空気が、ひんやりと、清廉なものになる。着慣れた衣服に身を包んでいるとき、周囲の空気は自分と同化し、ぬるくなる。それはそれで不快はない。着心地がよい、というのは、周囲の環境や空間と調和することでもある。だけどそのぶん、自分の身体と空気の流れとの心地よい違和感を、感じる機会は減る。

悩みに悩んで買ったカーディガンを羽織ると、自分の身体のかたちが一瞬フワッと浮かび上がり、身体自身がそのかたちを、感知したように思えた。新しい空気が自分のまわりに流れている。その中で、それまで曖昧に空気の中に淀んでいた「わたし」というものが、輪郭線を持った存在としてイメージされてくる。自分で作った衣服だと、ここまで劇的な感覚は起こらない。おそらく布地を選び裁断し、ミシンで縫い合わせる中で、少しずつその布地に身体が慣れていくのだろう。完成した頃には既に、着慣れた衣服に近くなっている。

それに反して、新調した衣服はいわば未知の物体、おのれにとっての「異物」である。新しく不慣れな素材が、身体に抵抗する。そして身体も同じ程度の力で、衣服に抵抗する。物質どうしの摩擦。安定しないエントロピーの流れ。そういうささやかな物理的現象の中で、わたしは「わたし」をもう一度、見つける。それがおそらく、衣服を新たにすることのちからであり、また身体にとっては、触覚のちからでもある。

 

 

唐突だが、「触覚」について、マルセル・デュシャン(1887-1968)がこう語っていた。少し長くなるが、紹介したい。

 

 

「四次元がどうのという話はみんな1900年ごろ、あと、たぶんその前でした。ただ、アーティストたちの耳に入ったのが1910年ころだった。当時わたしが理解したのは、三次元というのは四、五、六次元の始まりでしかありえないという部分。どうやれば他の次元にたどり着けるのかがわかってるなら、ということですが。ただ、四次元がどういうふうにして時間であるということになっているのかを考えたら、これはわたしには合わないな、と思うようになった。」

「四次元というのは時間の次元じゃあないというのがわたしの言い分です。物体には四つの次元があると考えることができるという意味。でも、それを感じ取ることのできる器官として、わたしらに何があるのか?眼ではふたつの次元しか見えんわけですから。触覚でもって三次元。なのでわたしは、四次元物体を物理的=身体的に捉える助けになる感覚といえば、これまた触覚ということになるだろうなと考えた。」

「たとえばナイフ、小さなナイフを握っていると、四方八方からいちどきに感覚が伝わってくることに気がついた。で、四次元感覚に可能なかぎり一番近づくのがこういう場合なんです。」

(マルセル・デュシャン、カルヴィン・トムキンズ[聞き手]『マルセル・デュシャン アフタヌーン・インタヴューズ  アート、アーティスト、そして人生について』中野勉訳、河出書房新社 2018年)

 

そして更に、

 

「われわれの空間上へ四次元の図形が投げかける影は、三つの次元を持つ影である」

(前傾書より)

 

 

私は次元や時間に関する物理学的解釈の歴史には疎いが、この考え方は実に面白いなあと思う。

つまり、デュシャンが言うには、四次元という未知の次元へのヒントは「三次元=触覚」のなかにあるはずだ、と。なぜなら、「二次元=視覚」のなかには、三次元のヒントが実際にあるから。それが「影」である。人間の目は双眼であることによって遠近(=三次元)を知覚する機能があるけれども、それに頼らずとも、「三次元」は物体がつくる影の色彩の変化(空間の一部分が灰色や黒になる=二次元)によって、捉えられる。影という形で、三次元は、二次元のなかに姿を現している。その論理を延長すると、四次元もまた三次元のなかにヒントを残しているはずだ、というのが、デュシャンの考え。よって三次元を主に知覚する役目を担う「触覚」のなかに、四次元への入り口はあるだろう、と。

 

デュシャンのような考えが現代物理学の中ではどういう位置にあるのかわからないが、デュシャンは物理学者でないだけに逆に素人にはわかりやすく、なんだか妙に納得させられる話である。目を開いて耳を澄ませて、あらゆるメディアに私たちは接するけれど、目を閉じ耳を閉じ(まあ耳は閉じられないが。このことは実は大ごとである)、ただ手触りだけを感じる、そういう機会は、意識しなければほとんどないに等しい。「触る」という知覚分野の必須科目に対して、少なくとも私自身は、結構に不真面目な生徒であるなあ、と思う。

 

しかし昨今では、例えば誰かとハグするとストレスの大部分が消失するとか、ぬいぐるみを触るとセロトニンが分泌されるとか、触覚は実際に、現代社会が欠乏に陥っている重要な要素をちょいちょいと拾い上げている印象を受ける。

代表してタピオカ。タピオカブームも、私には「触覚」の分類に感じられる。求められるのはサラサラと掴み所のない液体の感触ではなくて、より強固な歯触り、舌触り。スタバの限定フラペチーノなんて、もはや飲み物というより食べ物に近いのは、きっと皆さまがご存知。

それからひと昔前には、ナタデココのブームもありました。時期的にはちょうどバブルの崩壊期(91〜93年頃)で、世界経済の力のバランスが崩れようとしている現在と同じく、社会が大きく変容した時期だった。

 

徹底して無自覚であるけれど、社会から受ける大きなストレスや、自己の存在の不安定さを感じたときに、私たちは触覚的な文化を偏愛する傾向にあるのかもしれない。触る、ということが自分たちを幾分かでも癒してくれることを、頭ではなく身体が察知している。日常にハグもベーゼもない日本人が、そこはかとなく出す「実存」的なSOS、触覚はそういうものも担っていると思う。

(そういえば世の女性の憧れシチュ(?)「壁ドン」も今や顎クイ、顎ズン、頭ポン、おでこコツン、顔ムニなど、どんどん触覚的に移行しております。)(※今をときめくKing & PrinceがBS「ザ少年倶楽部」でやってる「少クラ胸キュン劇場」というシリーズ企画でその事実を知る。)(ガン見。)

 

なにかを触るということ、なにかに触られるということ。

自分と自分以外を隔てる曲面を、あるいは他人や他の物質がもつ存在の境界面を、手触りとして感ずること。

見ることや聴くことだけに注意が傾いてしまいがちな日常で、いま改めて吟味すべき情報は、実は「触覚」のなかに隠されているのかもなあと、改めて思う。そしてその手触りに含まれる救済こそが、もしかしたらデュシャンの言う「四つめの次元の影」、なのかもしれない。

 

 

 

「われわれがいちばん欲しいと思っているのは、ただしっかりと抱きとめてもらい......そして言ってもらうことなんだ......みんな(みんなというのはおかしなものさ、赤ちゃんのミルクだったり、パパの目だったり、寒い朝の音をたてて燃える薪だったり、梟(ふくろう)だったり、学校の帰り道のいじめっ子だったり、ママの長い髪の毛だったり、こわがることだったり、寝室の壁のゆがんだ顔だったり、するんだからね)......みんなそのうち、きっとよくなりますからね、って。」

(カポーティ『遠い声 遠い部屋』河野一郎訳、新潮文庫 1971年)

 

 

 

 

 

 

 

つながりを選び言葉を捨てた友へ

 

先日、大学時代のサークルの同年で構成されたLINEグループを退会した。2度目である。なぜ2度目かというと簡単な話で、1度目はLINEを始めた際に誘われ、やってるうちに腹が立って程なく辞めた。恥ずかしながら罵詈雑言のいくつかは吐いた。2度目は必要性を感じての再挑戦だった。1度目に誘ってくれた友人に再度招待してもらい、結果、見事に数日で限界が来て、退会した。その友人からはそれ以来音信はなくなった。

 

 

春先から生命について考えることが増えた。このどうしようもないものを、いかにきれいに、出来るだけ苦痛や汚濁なく、水がさらさらと流れるように終わらせることができるか、考えるようになった。色々な方法を考えては、不可能を感じて絶望した。絶望を繰り返すうちに、自分が嵌りつつあるその絶望の暴力的なまでの主観性に、辟易とするようになった。リスカや、服用している薬の列挙や、タトゥーや、あらゆる傷跡を写真に撮って、ただ寂しいからといって見ず知らずの人間にリプライやダイレクトメッセージを送るような絶望のいじましさを、SNSでは腐るほど見てきた。絶望を絶望として咀嚼するのはよいとして、それをアイデンティティにし始めたらいよいよ終わりだと思った。生命としてでなく、尊厳として私はそれを嫌った。その気持ちを維持するためには、客観的な知識が必要だった。幸い主観的な陶酔から抜け出せぬほどにはまだ衰弱してはいなかった。以前購入したまま本棚に挿してあったデュルケムの『自殺論』を、このとき手に取った。

 

デュルケムは近代の社会学者である。よって『自殺論』は精神医学的な見地ではなく、あくまで「社会」を深く見据えるために自殺を論じた一冊である。様々な考察、分類、あらゆる手続きで彼は自殺の根源を捉えようとする。その長い書物の端々で、国による統計が足りない、比較のための資料が残されていない、と彼は嘆く。嘆きながらも、限られた資料の中でまた新たな比較対象を見つけてゆく。自殺理由やその条件、時期などの統計比較に粘り強く取り組みながら、同時に彼は、自殺というものがたったひとつの理由や、言葉にできるような明確な理由によって引き起こされるものでないことも、痛切に語った。何ページにもわたって、ひとりの人間の自殺に対する統計の無力さを綴っている。論文の体をなした、手紙のようであった。血が通っている。その情熱、親密さから、『自殺論』は社会学の論文というより一つの思想である、と捉える読み手も多い。目を通しながら胸があつくなった。重要な箇所をメモしていたが、その白熱した文章に、メモがなかなか途切れず、こちらの手が痛くなった。

 

私には自分を絶望から引き上げるものがこの書物しかなかった。なので、書かれてあることを実践した。する以外に道はなかった。デュルケムは、自殺の抑制には社会的な強固なつながりが最も有効であることを強調して記している。かつて、それは主に宗教的なつながりだった。しかし宗教改革以降、そのつながりは薄まるばかりで、科学の発展がそれに拍車をかけた。それでも人と人のつながりは宗教だけではない。家族間のつながり、恋人や、友人とのつながり。それらを強く何重にもすることで、自殺は抑制できることをデュルケムは結論とした。

 

私はやらねばならないと思った、つながりというやつを。だが私にはつながるものが何一つなかった。家族とは何ヶ月も話していないし、話す気も起きない。それでも何かやるべきだと思った。強いつながりならば何でも良いというようなことすら書いてある、だったらネットだっていい。LINEで友人に話しかければ良いではないか。何も無いよりはいい。それにネットとはいえ、かつては毎日のように顔を合わせた人々なのだから、見ず知らずの他人でもあるまい。何かとつながることが、多分私を救うことだ、その一番ハードルの低いところから、やるべきだと思った。そうして、2度目のLINEグループに招待してもらった。だがやはりそこには、以前と変わらぬ、「空気」があるのだった。

 

 

「LINEグループが活発になることはほとんど無いよ」と複数の人から同じ言葉を聞いた。なので、活発な会話がなされることはあまりないことは知っていた。話がしたくなければ、しなくてもいいし、したければ、してもよい。だが私が目にした空間は、発言をしては謝り合う空間だった。なぜ謝るのか?通知が鳴るからだ。通知があまりにも頻繁にあると、人の大切な時間を奪うことになる、ということらしい。沢山話すことは結局誰かの迷惑になるので、メンバーの一人一人が、「話さないこと」を前提として成り立っているような、そんな空間だった。

 

私はやっぱり疑問だった、LINEに文字数の制限はない。アプリ内の通信の制限もほぼない。なのに私たちは沈黙している。会話というものが、こんなに身近に、何千キロも離れた人と人を容易に近づける媒体が今ここに存在するのに、沈黙をルールとして、沈黙し続けている。完全に、テクノロジーに、コミュニケーションの意志が負けている。しかし沈黙しているのに関わらず、「グループ」としてつながりを維持しようとしている。肌に触ることもできない、顔を見ることもできない、ただ無限の言葉だけが許された空間で、その言葉すらありがたがらずに放棄して、ただ眺め、「つながり」を確認している。忙しさ、個々の時間の使い方...色々な意見を聞く。だが私は、発言すら厭うほど他に譲れないものが多々あるなら、それこそ退会するという手段もあると思う。ただのグループトークである。しかしそれでも居続けている。「つながり」という、可視化されたセーフティネット

彼らは「つながり」というくくりさえあればいい。実際のつながりは、各々が現実のどこかで誰かと既に持っている。それでおそらく、満足している。だからこそ彼らのLINEグループという「つながり」は、死んでいた。そこに意志がないからだ。

彼らは基本的に首都圏に住んでいる。私は日本の南の方の端っこにいる。飛行機が飛んでいるが、私は耳の不調があるので、なかなか実際に会いに行ける距離ではない。そのこともきっと大きく影響している。

 

 

私が喋り続けていたら、メンバーの一人(Aとする)が、好んでいるアーティストを勧めてきた。私のあまり好きではないアーティストだった。なのでとりあえず「私にはよくわからないアーティストだ、良いと思う曲の曲名を教えてほしい」と発言した。するとAは「自分でググれ」と発言した。おそらくアーティスト自体を私が知らないと思っているようだった。「そうではなく、一通り私もそのアーティストは知っている。だがピンと来たことがない。だからあなたの好きな曲を教えてほしいのだ」と述べた。Aは「売れるには理由があるよな」と言いながら2曲を挙げた。私は両方を聴いた。一曲は割と好きだったが、もう一曲はいわゆる「産めや増やせや」をマイルドにポップに、幸福感で演出した曲だった。私はそのことを指摘した。するとAは「批評家でもあるまいし」と言って、以降私の意見に言葉を返すことはなかった。そして一部始終を見ていた他のメンバーは、沈黙していた。Aと私の両方を取り持つような発言が一人のメンバーからおずおずと出て、その話は流れていった。

沈黙するメンバーの無言の画面から、「ホッ」と、安堵のため息が複数、重なり合って聞こえた気がした。「ケンカが終わった」と。誰かからなだめられるようなケンカなんて、した覚えはないのに。私はAが提示した曲で無視されていた、家族の複雑さの話を、友人達に、伝えたかった。そしてそのことについて、もっと意見が聞きたかった。Aを説き伏せたいために批判したのではない。言葉も選んだ。選んだがゆえに、勿論長くはなった。しかし沈黙を強固なルールとしてきた彼らにとっては、突如現れた女による批判の展開は、ただのケンカ、揶揄や罵詈雑言の類いだったのだろう。無理解や誤解は、なぜか画面越しの沈黙からも痛いほどに伝わるものだ。そして翌日、実際に他のメンバーがこう発言した、「俺らは顔も見えない場所で意見の分かれるような侃侃諤諤とした論議をするのを嫌う」。そして「俺の奥さんがお前の発言を楽しみに見ている。最近子どもと話してばかりで、お前みたいなアダルトな会話に飢えてるらしい」。

 

 

沈黙。

 

 

私は一人だった。とにかく腹が立ったので、とことん見世物のチンパンジーになることにした。言葉を使ってあらゆる曲芸的なバカバカしさを演出しまくって、言葉の濁流を流し込んでやった。罵詈雑言の類いではない。ただただ言葉の濁流だ。ピッカピカの「淡水の交わり」にバケツを倒す。孔子も真っ青なやつ。誰も理解しなかっただろう。頭のヘンなやつと思って終わりだろう。それでいい。こんなものは「つながり」じゃない。「淡水の交わり」でもない。「和して同ぜず」でもない。「和して同じて和して同じて..∞」。ここにいる人々は沈黙し続けることによって永遠に「つなが」り、永遠に「同学年」なのだろう。会話もしない、批判もし合わない、「友人枠」のための友人、だろう。「つながり」のためのつながりだろう。そういう世界で、ひとり本心を交わし合いたいと願う私は、ただの狂人だ。私は降りる。偽物だ。こんなつながりは私を、いや恐らく誰も、絶望から救わない。

 

しかし、

 

しかし、である。私も私で、「つながり」だけを求めて、この「つながり」の場にやって来たのだった。動機はほぼ同じ、私が救われたいように、もし彼らも何かから救われたいのだとしたら、私は何かができただろうか。彼らを救えただろうか。

 

答え。何もできないのだ。だって沈黙しているのだから。苦しみがわからない。悲しみがわからない。お互い様だ。お互いに、お互いの絶望がわからない。そういう意味で、私は彼らを批判しながら、私自身も批判され得ることを、自覚した。

 

ただ、この救いのなさに光があるとすれば、それでもやはり会話しかないのだ。沈黙が誰かを救うことはない。沈黙は誰かに恥をかかせないためには、機能する。しかし恥というのは厳密な意味で絶望とは違う。もっと切実で、崖の淵で風にあおられているような感情を救うのは、インターネットという仮想空間においては、言葉しかないのだ。ここでは沈黙は金ではない。沈黙のうちに手を握ることはできないのだから。抱きしめることはできないのだから。もしかしたら、もう二度と会うことはないのかもしれないのだから。だから私たちは言葉を尽くさなければいけないのではないか。言い合いになることを、先生に叱られる子どものように恐れている場合では、ないのではないか。(いや、もっと軽い気持ちで彼らは、言い合いを避けている、例えば、雨に降られたら困るから洗濯はやめとこう、というような。彼らにとって「言い合い」は「雨に降られること」であり、それ以上ではあり得ない。彼らにとってLINEグループは保険であり、遊びであり、言葉もまた、遊びである。「つながり」も、遊びである。)

 

結局、いまテクノロジーによって好きなだけ言葉を交わせる友の一群ではなく、この星には既にいない100年の昔に生きたエミール・デュルケムと、私は言葉を交わしあった。多分、それで全ては終わりだった。私の試みは失敗し、かえって亀裂は深まり、絶望は依然として胸中に居座っている。デュルケムの言ったことは本当だ。強固なつながりのもとで、初めて人は生きてゆける。そしてそれは険しい道なのだ。簡単には手に入らないし、手に入ったと思っていても、時間とともにそうでなくなっていたりするのだ。

いつか死ぬ運命が、死ぬということに収斂するだけのはずの生が、どうしてこんなに険しいものなのか、わからない。

死んでもわからないだろう。

 

 

 

(ちなみに、LINEグループを退会した後、私の批判以降音沙汰のなかったAから個人宛にメールが来た。「お前はもう少し楽になる場所を探した方がいいんじゃないか」。私は胸中にある絶望を吐露した。今思えば愚かな行為だった。Aは真夜中にも関わらず率先して「新しいことをやるべきだ」「どうせ死ぬなら夢を追ってみるべきだ」と熱心に私を励ました。私に夢などないが、まあ確かにそれもそうだと思った。正直、LINEグループを含めて、この時が一番誰かとつながっている実感を得たことは否めない。)

(1週間ほど、私なりに出来そうなことを考えて、以前行っていたブックカバーの販売をまた始めることにした。Aには「よければツイッターをフォローしてくれたら嬉しい」と報告した。返信は無かった。)

(10日ほど経ってから、新しいことを始めた報告に、返信すら無かったことがとても残念だった、という旨をメールで伝えた。絶望の分だけ、私はAの言葉を信じていた。だから彼の無視は言葉で言い表せぬほどショックだった。)

(今思えばAは、私が絶望感を抱いていることを知ったとき、真っ先に自分が加害者的立場になることを恐怖したのだろう。励ましの言葉は、私に向けられた励ましではなく、彼自身を守るための弁護だったのだろう。)

(そのメールに対して、Aは事も無げに「ゴメン、全く無意識だった」とだけ返した。)