つながりを選び言葉を捨てた友へ

 

先日、大学時代のサークルの同年で構成されたLINEグループを退会した。2度目である。なぜ2度目かというと簡単な話で、1度目はLINEを始めた際に誘われ、やってるうちに腹が立って程なく辞めた。恥ずかしながら罵詈雑言のいくつかは吐いた。2度目は必要性を感じての再挑戦だった。1度目に誘ってくれた友人に再度招待してもらい、結果、見事に数日で限界が来て、退会した。その友人からはそれ以来音信はなくなった。

 

 

春先から生命について考えることが増えた。このどうしようもないものを、いかにきれいに、出来るだけ苦痛や汚濁なく、水がさらさらと流れるように終わらせることができるか、考えるようになった。色々な方法を考えては、不可能を感じて絶望した。絶望を繰り返すうちに、自分が嵌りつつあるその絶望の暴力的なまでの主観性に、辟易とするようになった。リスカや、服用している薬の列挙や、タトゥーや、あらゆる傷跡を写真に撮って、ただ寂しいからといって見ず知らずの人間にリプライやダイレクトメッセージを送るような絶望のいじましさを、SNSでは腐るほど見てきた。絶望を絶望として咀嚼するのはよいとして、それをアイデンティティにし始めたらいよいよ終わりだと思った。生命としてでなく、尊厳として私はそれを嫌った。その気持ちを維持するためには、客観的な知識が必要だった。幸い主観的な陶酔から抜け出せぬほどにはまだ衰弱してはいなかった。以前購入したまま本棚に挿してあったデュルケムの『自殺論』を、このとき手に取った。

 

デュルケムは近代の社会学者である。よって『自殺論』は精神医学的な見地ではなく、あくまで「社会」を深く見据えるために自殺を論じた一冊である。様々な考察、分類、あらゆる手続きで彼は自殺の根源を捉えようとする。その長い書物の端々で、国による統計が足りない、比較のための資料が残されていない、と彼は嘆く。嘆きながらも、限られた資料の中でまた新たな比較対象を見つけてゆく。自殺理由やその条件、時期などの統計比較に粘り強く取り組みながら、同時に彼は、自殺というものがたったひとつの理由や、言葉にできるような明確な理由によって引き起こされるものでないことも、痛切に語った。何ページにもわたって、ひとりの人間の自殺に対する統計の無力さを綴っている。論文の体をなした、手紙のようであった。血が通っている。その情熱、親密さから、『自殺論』は社会学の論文というより一つの思想である、と捉える読み手も多い。目を通しながら胸があつくなった。重要な箇所をメモしていたが、その白熱した文章に、メモがなかなか途切れず、こちらの手が痛くなった。

 

私には自分を絶望から引き上げるものがこの書物しかなかった。なので、書かれてあることを実践した。する以外に道はなかった。デュルケムは、自殺の抑制には社会的な強固なつながりが最も有効であることを強調して記している。かつて、それは主に宗教的なつながりだった。しかし宗教改革以降、そのつながりは薄まるばかりで、科学の発展がそれに拍車をかけた。それでも人と人のつながりは宗教だけではない。家族間のつながり、恋人や、友人とのつながり。それらを強く何重にもすることで、自殺は抑制できることをデュルケムは結論とした。

 

私はやらねばならないと思った、つながりというやつを。だが私にはつながるものが何一つなかった。家族とは何ヶ月も話していないし、話す気も起きない。それでも何かやるべきだと思った。強いつながりならば何でも良いというようなことすら書いてある、だったらネットだっていい。LINEで友人に話しかければ良いではないか。何も無いよりはいい。それにネットとはいえ、かつては毎日のように顔を合わせた人々なのだから、見ず知らずの他人でもあるまい。何かとつながることが、多分私を救うことだ、その一番ハードルの低いところから、やるべきだと思った。そうして、2度目のLINEグループに招待してもらった。だがやはりそこには、以前と変わらぬ、「空気」があるのだった。

 

 

「LINEグループが活発になることはほとんど無いよ」と複数の人から同じ言葉を聞いた。なので、活発な会話がなされることはあまりないことは知っていた。話がしたくなければ、しなくてもいいし、したければ、してもよい。だが私が目にした空間は、発言をしては謝り合う空間だった。なぜ謝るのか?通知が鳴るからだ。通知があまりにも頻繁にあると、人の大切な時間を奪うことになる、ということらしい。沢山話すことは結局誰かの迷惑になるので、メンバーの一人一人が、「話さないこと」を前提として成り立っているような、そんな空間だった。

 

私はやっぱり疑問だった、LINEに文字数の制限はない。アプリ内の通信の制限もほぼない。なのに私たちは沈黙している。会話というものが、こんなに身近に、何千キロも離れた人と人を容易に近づける媒体が今ここに存在するのに、沈黙をルールとして、沈黙し続けている。完全に、テクノロジーに、コミュニケーションの意志が負けている。しかし沈黙しているのに関わらず、「グループ」としてつながりを維持しようとしている。肌に触ることもできない、顔を見ることもできない、ただ無限の言葉だけが許された空間で、その言葉すらありがたがらずに放棄して、ただ眺め、「つながり」を確認している。忙しさ、個々の時間の使い方...色々な意見を聞く。だが私は、発言すら厭うほど他に譲れないものが多々あるなら、それこそ退会するという手段もあると思う。ただのグループトークである。しかしそれでも居続けている。「つながり」という、可視化されたセーフティネット

彼らは「つながり」というくくりさえあればいい。実際のつながりは、各々が現実のどこかで誰かと既に持っている。それでおそらく、満足している。だからこそ彼らのLINEグループという「つながり」は、死んでいた。そこに意志がないからだ。

彼らは基本的に首都圏に住んでいる。私は日本の南の方の端っこにいる。飛行機が飛んでいるが、私は耳の不調があるので、なかなか実際に会いに行ける距離ではない。そのこともきっと大きく影響している。

 

 

私が喋り続けていたら、メンバーの一人(Aとする)が、好んでいるアーティストを勧めてきた。私のあまり好きではないアーティストだった。なのでとりあえず「私にはよくわからないアーティストだ、良いと思う曲の曲名を教えてほしい」と発言した。するとAは「自分でググれ」と発言した。おそらくアーティスト自体を私が知らないと思っているようだった。「そうではなく、一通り私もそのアーティストは知っている。だがピンと来たことがない。だからあなたの好きな曲を教えてほしいのだ」と述べた。Aは「売れるには理由があるよな」と言いながら2曲を挙げた。私は両方を聴いた。一曲は割と好きだったが、もう一曲はいわゆる「産めや増やせや」をマイルドにポップに、幸福感で演出した曲だった。私はそのことを指摘した。するとAは「批評家でもあるまいし」と言って、以降私の意見に言葉を返すことはなかった。そして一部始終を見ていた他のメンバーは、沈黙していた。Aと私の両方を取り持つような発言が一人のメンバーからおずおずと出て、その話は流れていった。

沈黙するメンバーの無言の画面から、「ホッ」と、安堵のため息が複数、重なり合って聞こえた気がした。「ケンカが終わった」と。誰かからなだめられるようなケンカなんて、した覚えはないのに。私はAが提示した曲で無視されていた、家族の複雑さの話を、友人達に、伝えたかった。そしてそのことについて、もっと意見が聞きたかった。Aを説き伏せたいために批判したのではない。言葉も選んだ。選んだがゆえに、勿論長くはなった。しかし沈黙を強固なルールとしてきた彼らにとっては、突如現れた女による批判の展開は、ただのケンカ、揶揄や罵詈雑言の類いだったのだろう。無理解や誤解は、なぜか画面越しの沈黙からも痛いほどに伝わるものだ。そして翌日、実際に他のメンバーがこう発言した、「俺らは顔も見えない場所で意見の分かれるような侃侃諤諤とした論議をするのを嫌う」。そして「俺の奥さんがお前の発言を楽しみに見ている。最近子どもと話してばかりで、お前みたいなアダルトな会話に飢えてるらしい」。

 

 

沈黙。

 

 

私は一人だった。とにかく腹が立ったので、とことん見世物のチンパンジーになることにした。言葉を使ってあらゆる曲芸的なバカバカしさを演出しまくって、言葉の濁流を流し込んでやった。罵詈雑言の類いではない。ただただ言葉の濁流だ。ピッカピカの「淡水の交わり」にバケツを倒す。孔子も真っ青なやつ。誰も理解しなかっただろう。頭のヘンなやつと思って終わりだろう。それでいい。こんなものは「つながり」じゃない。「淡水の交わり」でもない。「和して同ぜず」でもない。「和して同じて和して同じて..∞」。ここにいる人々は沈黙し続けることによって永遠に「つなが」り、永遠に「同学年」なのだろう。会話もしない、批判もし合わない、「友人枠」のための友人、だろう。「つながり」のためのつながりだろう。そういう世界で、ひとり本心を交わし合いたいと願う私は、ただの狂人だ。私は降りる。偽物だ。こんなつながりは私を、いや恐らく誰も、絶望から救わない。

 

しかし、

 

しかし、である。私も私で、「つながり」だけを求めて、この「つながり」の場にやって来たのだった。動機はほぼ同じ、私が救われたいように、もし彼らも何かから救われたいのだとしたら、私は何かができただろうか。彼らを救えただろうか。

 

答え。何もできないのだ。だって沈黙しているのだから。苦しみがわからない。悲しみがわからない。お互い様だ。お互いに、お互いの絶望がわからない。そういう意味で、私は彼らを批判しながら、私自身も批判され得ることを、自覚した。

 

ただ、この救いのなさに光があるとすれば、それでもやはり会話しかないのだ。沈黙が誰かを救うことはない。沈黙は誰かに恥をかかせないためには、機能する。しかし恥というのは厳密な意味で絶望とは違う。もっと切実で、崖の淵で風にあおられているような感情を救うのは、インターネットという仮想空間においては、言葉しかないのだ。ここでは沈黙は金ではない。沈黙のうちに手を握ることはできないのだから。抱きしめることはできないのだから。もしかしたら、もう二度と会うことはないのかもしれないのだから。だから私たちは言葉を尽くさなければいけないのではないか。言い合いになることを、先生に叱られる子どものように恐れている場合では、ないのではないか。(いや、もっと軽い気持ちで彼らは、言い合いを避けている、例えば、雨に降られたら困るから洗濯はやめとこう、というような。彼らにとって「言い合い」は「雨に降られること」であり、それ以上ではあり得ない。彼らにとってLINEグループは保険であり、遊びであり、言葉もまた、遊びである。「つながり」も、遊びである。)

 

結局、いまテクノロジーによって好きなだけ言葉を交わせる友の一群ではなく、この星には既にいない100年の昔に生きたエミール・デュルケムと、私は言葉を交わしあった。多分、それで全ては終わりだった。私の試みは失敗し、かえって亀裂は深まり、絶望は依然として胸中に居座っている。デュルケムの言ったことは本当だ。強固なつながりのもとで、初めて人は生きてゆける。そしてそれは険しい道なのだ。簡単には手に入らないし、手に入ったと思っていても、時間とともにそうでなくなっていたりするのだ。

いつか死ぬ運命が、死ぬということに収斂するだけのはずの生が、どうしてこんなに険しいものなのか、わからない。

死んでもわからないだろう。

 

 

 

(ちなみに、LINEグループを退会した後、私の批判以降音沙汰のなかったAから個人宛にメールが来た。「お前はもう少し楽になる場所を探した方がいいんじゃないか」。私は胸中にある絶望を吐露した。今思えば愚かな行為だった。Aは真夜中にも関わらず率先して「新しいことをやるべきだ」「どうせ死ぬなら夢を追ってみるべきだ」と熱心に私を励ました。私に夢などないが、まあ確かにそれもそうだと思った。正直、LINEグループを含めて、この時が一番誰かとつながっている実感を得たことは否めない。)

(1週間ほど、私なりに出来そうなことを考えて、以前行っていたブックカバーの販売をまた始めることにした。Aには「よければツイッターをフォローしてくれたら嬉しい」と報告した。返信は無かった。)

(10日ほど経ってから、新しいことを始めた報告に、返信すら無かったことがとても残念だった、という旨をメールで伝えた。絶望の分だけ、私はAの言葉を信じていた。だから彼の無視は言葉で言い表せぬほどショックだった。)

(今思えばAは、私が絶望感を抱いていることを知ったとき、真っ先に自分が加害者的立場になることを恐怖したのだろう。励ましの言葉は、私に向けられた励ましではなく、彼自身を守るための弁護だったのだろう。)

(そのメールに対して、Aは事も無げに「ゴメン、全く無意識だった」とだけ返した。)