呼吸のプランC

 

ブレス(breath)について考えている。

先日ベクヒョンの新しいアルバムが私のデバイスにも届いた。とてもオシャレなアルバム。MVも公開されているリードトラック「Candy」は近年のKPOPが得意とする浮遊感極まった楽曲で、ボーカルのフレージングにしても捉えどころのない、ある意味とても環境音楽的な、「ボーカルの旋律一本で己を喋り倒す」ということをやめた2010年代後半のさらにポスト、といった感じの楽曲である。

(旋律でベラベラ喋り倒すところを、他の要素---例えばバッキングの他楽器のメロディ、コーラス、あるいは音楽からも外れてMVやMVにおけるダンス、ファッションといった要素で埋めていく、という方法論はここ数年ランキング上位のメジャーなポップスでは顕著である。ちなみに今回の「Candy」のMVには80-90sが生み出したパストフューチュリズムの回顧があり、単純に表現すると『AKIRA』っぽい。)

 

シンとした部屋でこのアルバム、というか「Candy」を聴いていたら、なんだか不思議な感覚に陥った。ブレス音(呼吸音)がある。

ブレス音というと、「?どの曲にもそりゃあるのでは?」と思ってしまいがちなのだが、そういうわけではない。

例えばテンポが速く楽器数の非常に多い曲だったり、あるいは人工的な、"デジタル"なサウンドが目立つ楽曲では、あえてブレス音はカットされていることが少なくない。逆にテンポの遅いバラードや、アコースティックな楽器を単体で使ったアレンジなどでは、ブレス音は「旋律を邪魔しない程度に」残されているのが普通だ。後述するが、主に90年代以降の米国R&B周辺では、楽曲におけるセクシャルな記号としてもこのブレス音は大いに用いられてきた。

この「Candy」という楽曲は、バラードでもなければ音数の少ないアコースティックサウンドでもなく、また完全な米国寄りの本格派R&B、というわけでもない、MVを鑑みても「(アニメ的な)宇宙感」すら漂う楽曲だ。通例ならば、ブレス音は積極的な足跡を残さぬよう構築されている場合がほとんどだ。

ところが本作では、全編にわたってブレスが丁寧に拾われている上、Cメロ前の休止(ブレイク;楽器が沈黙するところ)にも、ブレス音は削られぬまま入り込んでいる。

 

 

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声の録音作業におけるブレスの存在について、少し振り返ってみることから始めようと思う。

歌を歌う際、おそらく歌い手が一番に気にするところは、音程の正しさや、声のトーン、表現の仕方、といったものである。主にマイクに着実に乗るであろう声について、「届けたい歌」について、考えたり悩んだりする。この感覚は我々がカラオケに行って歌う時等と、そこまで変わらないものと思う。

だが、歌を録音しより良いサウンドに編集する係の人(=エンジニアやミキサー、ディレクター)がまず一番最初に取り掛かり、そして最後まで格闘しつづけるのは、実は「ノイズ除去」である。どんなに良い歌を良いコンディションで録ることができたとして、例えばマイクに歌手の服の衣擦れの音や、その他イスの音やら何やらの生活音が紛れ込んでしまっていたら、それは「音楽を録る」という彼らの仕事の第一義を損なう。また編集作業の途中で、歌声にあるエフェクトをかけると独特のノイズが生まれたり、ということも多々ある。そういったノイズに対しても対処していく、つまりノイズ=「届けたくない音」と闘い続けることが彼らの仕事の重要部分、と言ってもいい。

 さて、その「ノイズ除去」には、歌い手の口元のノイズ---リップノイズ、さらにブレス(呼吸音)が、当然、含まれる。音楽、特にポップスには、ほとんど予め想定された旋律がある。その旋律に対して、「ブレス」はいつも外側に位置するものだ。よって、ブレスは「ノイズ」となる余地が十分にある。ブレスの音を処理する、ということは、歌声の録音において必要不可欠な「手入れ」だ、ということになる。

だが、このブレス音の処理に関しては、他のあらゆる音楽の表現・ミックス(楽曲の音響的は編集作業)と同じように、誰もが実践し、また誰もが守らなければならないような明確な基準は、存在しない。通例めいたものがボンヤリと存在するのみだ。

 

ブレス音は、なくてもよい(カットしたり、ボリュームをゼロにしてもよい)し、また目立っていてもよい(ボリームを上げてもよい)が、通例としては、歌の旋律より目立たぬあたりの塩梅で、調整し、残す。のが、普通である。

また、バラードのときや、楽器の数が少なく音と音の隙間に空間があるときは、たいてい、残す。のが、これまた普通である。

まあ大体、の話である。

 

ブレスをある程度残すことは、大体のエンジニアの方が一応の基本として学校や教本で習うことなのではないかと思う(宅録ラーではあるが私も書籍などでは毎回そう確認する)。「歌を歌う」という行為が「息を吸う・吐く」の繰り返しの上に成り立つことは、経験上、誰しもに自明だ。よって「歌声がある限り呼吸音がある」という一種の自然主義的態度は、録音技法の上にも根付いていると言える。

言い換えれば、ブレス音はノイズとして捉えることもできるが同時にノイズだと完全に言い切ることもできない極めて曖昧な要素、ということだ。実際、あらゆる楽曲における歌声のブレスの大きさ、入り方を、聴き比べてみるとそれは明らかだ。どれ一つとして同じものはない。あるものは全くブレスしていないかのようにカットされ、またあるものはクロールの息継ぎの最中でもあるかのようにブレスを際立たせていたりする。つまり、ブレス音を残すか、残さないか、残すとしたらどのくらいの割合で、どのくらいの音量で残すか‐‐‐という判断は、制作側が全面的に引き受けるものであり、そこにはとめどない自由裁量が(もしかしたら音楽理論よりも自由な地平が)広がっているのである。

 

 

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とりあえずKPOPの全盛期(2010年代付近)、ベクヒョンの事務所の楽曲と、その他の事務所の楽曲を数曲ザッと聴いてみる。

(選曲はとりあえず、

・アコースティックなバラードでないこと

・過度にオーガニックだったり逆に過度にビキビキなサウンドでないこと

まあ「Candy」とそこまで遠くないかな?と思われるものを中心に、適当に選んだ。)

 

《EXO》

・EXO-K「What Is Love」2012年;

ベクヒョンとD.Oによるボーカル。ブレスは削られている箇所が多い。局所的に目立たせているところはあるが、後半に多いので、曲の「盛り」目的(情報を多くし焦燥感を演出する等)と考える。ほぼなしとする。

・EXO「Growl」2013年;

ほぼなし、Bメロに多少あり。Aメロは特にブレスのための音の隙間が十分にあるように感じるがほぼカットされている。Cメロ前のバックの休止(ブレイク)は完全に全ての音が沈黙。ここにはブレスが入っておかしくないが、やはりない。

・EXO「Overdose」2014年;

ブレスほぼなし。

・EXO「Monster」2016年;

ブレスほぼなし。このあたりの楽曲から、SMEはコード感が非常に複雑or曖昧な進行にこれまたコード感が曖昧な多重コーラスを乗せるというアレンジ曲を多く出し始め、それは引き続き現在に継続している。が、このときはその「《超(ハイパー)》生命的」「宇宙的」なサウンド設計に則り、ボーカルのブレス(=自然主義的態度の象徴)も抑制されている。

・EXO「Power」2017年;

ちょっとブレスある。が、同時にバッキングのスクラッチに乗じたノリ重視のカットも多い。曲の内容が「We got the power」、またオリンピック開会式で披露されるような曲でもあるため、この頃のEXOには若干の自然回帰を認めてもよいのかもしれない。

 

《ベクヒョン・ソロ》

・BAEKHYUN&Loco「YOUNG」2016年;

ここらへんの楽曲はもう完全に2020年の今と地続き。ブレス云々というより、「ブレス(吐息)っぽい別録りトラック」が、Aメロ~サビ~ラップパート全編にわたってほぼ各小節4拍目に挿入されている。おそらくその別録りブレス音によって、「呼吸」の雰囲気=生命の空気、を演出するに足りているため、本物のブレス音は最小限にされていると思われる。

・BAEKHYUN「UN Village」2019年;

ベクヒョンの前作ソロアルバムの楽曲。ブレスややあり(部分的にカット)。が、アレンジの音の隙間の多さを考えると、音量が低め。またAメロの頭、間奏後の歌メロ前、バックの休止中、はブレスがカットされている。またこのアルバム、全体的に歌フレーズを締める目的の「吐音」はしっかり入っている。

・同「Stay Up」2019年;

上アルバムの2曲目。ブレスはやや目立つ。ラップパートは忙しすぎるためかカット。

・同「Betcha」2019年;

同アルバム3曲目。ブレスほぼなし。Bメロに少々あり。

・同「Diamond」2019年;

同アルバム5曲目。ブレスほぼなし(局所的にあり)。

 

 

《同時期の事務所内外》

・SUPER JUNIOR「THIS IS LOVE」2014年;

ブレスほぼなし。

BoA「Kiss My Lips」2015年;

ブレスが目立つ。セクシーなムードを作る目的と思われる。息を吸う音にしろ吐く音にしろ、やはりソロのほうがブレスは残しやすい(パートの切り替え(=トラックの切り替え)が最小限ですむ)。

・f(x)「4 Walls」2015年;

ブレス結構ある。意外である。目立つほどではないが、きちんとサビの途中にもある。

・BIGBANG「WE LIKE 2 PARTY」2015年;

ブレスほぼなし。

・TWICE「TT」2016年;

Aメロにあり。Bメロ以降はほぼなし。

・TWICE「BDZ」2018年;

ブレスほぼなし。

・PENTAGON「Shine」2018年;

ブレスほぼなし。咳までしてるのに。

 簡単な所感として、全盛期~10年代のKPOPには特にほぼブレスがない。(繰り返しになるがバラードは除外している。)

少々長くなるが、比較のため上記KPOPと同時期の2015年付近の米ビルボード系楽曲のブレス音についての所感も以下に挙げる。

 

《2015年付近・米ビルボード上位》

・PITBULL「Timber(feat. Ke$ha)」2013年;

ケシャのブレスが目立つ。ブレスがケシャの歌声の持ち味だと知り尽くしているの感がある。もはや芸術のブレス芸(芸と言ってはいけない。)ブレスはボーカルのアイデンティティのひとつ。

・Justin Bieber「Sorry」2015年;

ブレスほぼなし。フレーズ終止の際の吐息は大いにあり。

・Mark Ronson「Uptown Funk(feat.Bruno Mars)」2015年;

ブレスほぼなし。王道のファンクだがそれでもブレスほぼなし。意外。

Justin Timberlake「CAN'T STOP THE FEELING!」2016年;

ブレスほぼなし。Bメロに少々あり。Aメロに無いのは意外だが、歌フレーズのアタックの強さ、スタッカートを際立たせるためにカットしたのだと思う。ブレスまで明確だと旋律のトガりが後退してしまう。

 ・Ed Sheeran「Shape of You」2017年;

ブレスほぼなし。 ハンドクラップとボーカル+ギターだけの構成になる「Come on my baby come on」の部分には若干だがブレスの幻影が見える。浮遊感はあるがブレスはかなりコントロールされている。

印象としては2015~2017年の米ポップスも同様、ブレス音は抑制傾向がみられる

以下さらに、ここ1年の米国ビルボード系上位系楽曲を同様に挙げる。

 

《2019年・米ビルボード上位》

・Billie Eilish「bad guy」2019年;

ブレスというか、ほとんどがブレス()。相当小さい声で録ったのを重ねてるのではないかと思われる。なので逆にノイズを取る技術が凄い(小さい声を録る際は集音も上がるためにそのぶん余計なノイズも入る)。小さい声で歌っているのに歌に感情があるというのも凄い。吸音のコントロールはみられる。またブレス音を別録りしてループさせてるところもあるが、もうブレスという概念を少し出てるので、正直この曲については比較すべきでないと思う。カヒミ・カリィとしか比べられない。

・LIL NAS X「Old Town Road(feat.Billy Ray Cyrus)」2019年;

この曲が2019年ビルボードのトップというのがアメリカっぽい。ブレスはほぼなし、目立たない。確かにブレスがバッチリあったら泥臭すぎるかもわからない。カントリーというだけで人間み(自然主義的態度)は十分なのだろう。

・Post Malone and Swae Lee「Sunflower」2019年;

ビルボード年間2位。ブレスほぼなし。音色に浮遊感があるのが今っぽい。やはりわかりやすい浮遊感があると若干「人工感」が生まれるせいか、ブレスはカットされがち。

・Taylor Swift「Me!」2019年;

混沌としている。最初に「スゥ・・・」とあってもおかしくないがカット。1サビはブレスがある。2番でBrendonが入ってきて以降、Aメロにはあるがサビにはほぼない。二人以上のユニゾンになると確かにブレスは邪魔(ブレス音×2になって単純に耳障りになる)。ブレス音も、脳に処理を迫るひとつの音情報だということを再確認させる。

Katy Perry「Never Really Over」2019年;

ブレスがかなり目立つ。ケイティ・ペリーは昔からブレスを積極的に押し出す曲が多い気がする。個人のボーカルの良さを考えた際に、野獣性とかガッと食いついてくるオーラ、そういうものを前面に出したい時も、ブレス音というのは不可欠だと感じる。

 2019年以降のチャート上位曲には、ちょっとブレス音が増えている若干規格外のビリー・アイリッシュが風穴を開けたのかもしれない。

 

非常に性急かつ粗末な聞き比べではあったが、一応の全体的な所感としては、

最近、ブレス音復活してきてるな・・・?

ということ。

そして、楽曲におけるブレス音の位置づけの分類として見えてきたのは、以下4項。(※ただしこれはまったく狭められた個人的・感性的な分類に過ぎない。それ以外の意図でブレスを残している音楽家は数多いることだろう)

 

①「歌あるところに呼吸あり」といった自然主義的態度としてのブレス音残し

→適度な音量にコントロールされる

(→人の声の温かみや生命の空気をあえてなくしたい場合はカットされる)

②セクシャルな表現としてのブレス音残し

→この場合は過度に強調される

③旋律のアクセントやサウンドの感触としてのブレス音残し、あるいはカット

④デジタルサウンドの尊重としてのブレス音カット

 

①と④は、結果的には同じ状況をさす。自然的・非自然的、どちらの態度を貫くか?というだけの問題。

②は①の拡大解釈の結果と言える。人間の性的側面を大きく打ち出すことは自然主義的態度の高揚した形と捉えられる。

③はあらゆる楽曲で部分的にブレス音がカットされたり残されたりする大きな理由。

④は先に挙げた2010年代のKPOPおよび米ビルボード系全般に見られる傾向。

基本的に、①と④は意味的に背反するが、①とそれ以外の組み合わせ、④とそれ以外の組み合わせ、はあり得る。

 

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2010年代のベクヒョンの周囲の音楽またはKPOP全体には、まずブレス音自体が少なかった。そしてその少なさは、KPOPのひとつの体質でもあったように思う。私自身の感覚によっても思い出されるのだが、KPOPはカルチャーとして米国に寄せてはいたものの、「米国のクオリティだけど米国ほど生々しくない、セクシー一辺倒じゃない」という長所を持っていた。KPOP以前、世界ではブリトニーやビヨンセ、ガガやリアーナといったセクシー&パワー路線のR&Bポップスが主流だったが、KPOPを最初期に評価したのはいわゆるそういった路線の音楽をことさら好む層ではなく、むしろオープンな米国文化とクローズドな日本文化の狭間で行き場を失っていたような若者たちだった、と私は回顧する。長く憧れてきた米国R&Bポップス固有の生々しさ、人間くささを、KPOPはアジア的な小宇宙的概念で翻訳し、「クリーンさ」を併せ持つ形で取り込んだ。

言うまでもないことだが、R&Bにおいてブレス音は最重要の要素のひとつである。何よりも先に「人が歌っている」という実感を音楽に与えることができる。前に述べた、ブレス音による音楽の自然主義的側面の補強である。R&Bはジャズから生まれたものだから、ライブ感の必要性はつきまとう。R&B界隈によるブレス音の拡大的な解釈の結実として、マイケル・ジャクソンサウンドロゴのようになっているあの破裂音的な吐音はあったし、またジェームズ・ブラウンの「ゲロッパ!」などもその例であろう。そしてそれらは全て、「感情の高揚」や「ノリ」という非常に人間的な、かつ自然主義的な動機付けがなされてきた。

また90年代から00年代のR&B‐ポップスの楽曲には、「スー、ハー、スー、ハー、」という、極端なブレス音の強調が散見されるようになる。90年代から00年代、ブリトニー・スピアーズデスティニーズ・チャイルドの時代の米国R&Bポップスが、ブレス音をセックスのメタファーとして用いているのは明らかである。

そんな米国R&Bポップスに対して、ジャニーズやヴィジュアル系ジュディマリなどを聴いて育った日本の若者が、そのブレス音のセクシャルな強調に馴染むには、結構なハードルがあっただろうと思われる。私自身もそうであったし、実際に日本でアメリカのR&Bのようなブレス音の使い方をするメジャーな楽曲はほとんどなかった。

アメリカンなR&Bポップスに近づきたくてもなかなか近づけない、という状況下で、じわじわとやってきたのがKPOPだった。そしてそこには、ハードルとなる「スー、ハー」がなかった。セックス=過剰に強調された自然主義的側面、の概念を必ずしも伴わず、ただ純粋に最新のテクノロジーが作り出す音の世界に没頭できる、カワイイ・カッコイイだけでもノッていける。よってKPOPにブレス音が少ないことは、当たり前のように感じていた。それがクリーンさの証、テクノロジーに対する音楽の姿勢の一貫性、でもあった。そういった純粋なテクノロジーの実践と素直な聴覚の喜び(当時は「中毒性のあるメロディ」というKPOPの形容が流行していた、非常に聴覚的な文言である)、それらこそが、米国R&BポップスとKPOPを分け隔てる、最初の分水嶺であったと感じる。

そして両者を分ける壁は、結構長く保った、と思う。

 

2019年以降徐々に表れ出した楽曲中のブレス音およびベクヒョン「Candy」のブレス音の特異性は、この壁を、超えるでもない、強化するでもない、無化し始めた、その点にある。この分水嶺の右か左かではない、プランCを見せている。つまり、テクノロジーへの傾倒によってブレス音をなくすでもない、セクシャルな表現としてブレス音を用いるでもない。どちらでもない。テクノロジー優先と解釈するにはブレスは多すぎるし(彼のブレス音は以前はもっとカットされていた)、セクシャルな表現としてブレス音が用いられていると考えるには、ブレス音は少なすぎる(ブリトニーやケシャの際立った呼吸音の例)。また今や音楽のいち側面と化したMVを見るにつけても、ベクヒョンが「Candy」において、わかりやすくセクシャルな表現を狙っているわけではないということは明らかだ。

ベクヒョンのブレス音が表現する「プランC」とは何だろう。私の耳には、「人間とテクノロジーのかつてなかったほどの純粋な融合」として届く。前述した①~④の分類の、意味的に背反していた①(自然主義的態度)と④(テクノロジー尊重)の断絶の、終焉だ。つい数年前まで、KPOPおよびベクヒョンの所属するSMEは、音響制作におけるテクノロジーの進化を前面に出した楽曲では、ブレス音を頻繁にカットした。なぜそうなされたかというと、「テクノロジーと人間とは根本的に住む世界が違ってしかるべきだ」という社会的な共通認識が、作り手の聴覚にも聴き手の聴覚にも、影響を与え続けていたからではないか。テクノロジーによってビームのように過ぎ去る音楽の上に、人間の自然な呼吸音は似合わない。テクノロジーの雰囲気を壊してしまう、と”耳が感じる”。それは観念の上で、両者の世界が離反していたからだ。つまり、人間は人間、テクノロジーはテクノロジー。という風に。そうやってはっきりと両者を区別する意識があったからこその、ブレス音の消去ではなかったか。そして、ブレス音が大きく鳴らされる場合は特定の理由や効果を必要としたことも、この境界認識に端を発すると考えられる。聴覚は聴覚のみによって独立しているわけではなく、常に「認識」の影響を受けている。そして「認識」を与えるものこそが、個人の思考や感情であり、その個人の思考や感情は、社会通念からの影響を、また常に受けている。

2010年代からおよそ10年が経ち、ここに述べるまでもなくテクノロジーは更に進歩した。ケータイでどこでも連絡を取り合えることに驚いていた時代は過ぎ去り、今やビデオ通話が加速度を増して普遍的になりつつある。音響制作においても進歩の歩幅は同じく大きい。以前は容易に融合しなかったはずの、デジタルサウンドと人間のブレス音が、同じ音響空間に、それぞれの精度を維持したままで独自に成立する。そんなサウンドスケープを私はベクヒョンの「Candy」に“見た”ようにも、思う。常に進化を遂げる技術が、サウンドと呼吸音を、今この瞬間にも結び付け直している。

 

浮遊する音の集合と、彼の人間としての呼吸が、同時に支持され、尊重されている空間。「Candy」のブレス音を実現させたものは、ここ10年のテクノロジーの進化でもあり、同時に、テクノロジーの進化を人間自身が自らの身体にフィードバックさせ始めた、その二者の、力学的作用ではなかったか。そしてその作用が素晴らしいようにも、また恐ろしいようにも感じるのは、人間がテクノロジーを内在化させることの結末を、音楽が、まだ描き切っていないからだ。内在化されたテクノロジーが私たちの身体で、聴覚で、どのように振る舞うのか?実験は未だ途上で、わからない。未来はこれまでにも何億回も想像されてきたはずなのに、いざその後ろ姿を捉えようと踏み出すと、未来そのものが曖昧だ。

しかし始まった。いま身体が、聴覚が、動き出した。本当の「テクノロジーとの融合」が、始まった。そんな気がする。ベクヒョンの「Candy」は、その予兆を、その喜びを、その恐怖を、意識的にか無意識的にか、閃光のように垣間見せる。その呼び声は「歌」でもない。「言葉」でもない。ただ息を吸い吐くという、人間がとうに聞き飽きているはずの、最も古臭い音の配列‐‐‐最も古い呪い、である。私たちは、デジタルサウンドの中で呼吸する準備を始めた。